先にブロウを抜け出た魔断が地面に降り立つと、すかさず盗に手を差し伸べ、自分のほうへと引き寄せた。 ディメイションブロウは空間と空間を「穴」で結ぶようなイメージになっており、出現先の穴は1.5mほどの位置に開くため、慣れていないと着地に失敗し、後から来る人に押しつぶされてしまうことになるからだ。 盗に対して何も説明することなく魔断が飛び込んだのは、自分がフォローをしてあげればいいと考えていたためであり、片や盗は盗で猫を彷彿とさせるしなやかな動きで危なげなく着地した。とはいっても、そのままでは間蔵爺さんが上から降ってきてしまうため、魔断は盗を引き寄せる――が、盗もそれは気づいていたようで、引っ張る力と進む力が同時に働いた結果、飛び込むように魔弾の胸に盗は抱きつく形となる。 「おっと――」 「あ……」 受け止めながら魔断は盗を、盗は魔弾の、互いの瞳に映る己の姿を認めた時――、 「お主ら余裕じゃのぅ……、こんな場所でいちゃつくとは――そもそもじゃっ!なんじゃっ!どっちなんじゃっ!!勇者殿よっ、お主は泡姫のことをこれから護ってくれるんじゃなかったのかのっ!!そんな見境なくおなごを抱きしめるお主に孫はやれんのっ!!――もっともやる気はないがのっ!!」 間蔵爺さんの怒声が響く――も、 「あ、ゴメンな――盗」 「ううん……ありがとう、おにいちゃん」 既に二人は間蔵爺さんに対してスルースキルを発動させていた。 「ここだな」 「だねっ」 二人は意識を泡姫に向けその位置を確認すると互いに頷き合い、目の前にある白を基調とした洋風の建物を見上げた。中央の一角だけ背が高く、その先端には十字架がそびえ立っている。それ以外は豪華な2階建ての一軒家という佇まいである。再び視線を戻してもう一度頷き合うと、玄関を求めて――、泡姫の家の玄関を探しに歩き出した。 一人淋しくて涙を流す間蔵爺さんを後にして……。 とはいっても、そこは敷地的には普通の一軒家。人目を避けるためか、ブロウは敷地の外からは見えない位置に設置されていたが、半周も歩けば難なく玄関へと辿り着いた。 そこには両開きの扉が立ちはだかっていたが、魔断と盗がその前に立つと、音も立てずに勝手に外側へ向かって開いた。 「入ってこい――ってことか」 「う、うんっ……いよいよ、だねっ」 「いよいよ――まあ、いよいよか……?時間にしたら1時間ぐらいのものだけど」 「そんなことないよっ!いよいよはいよいよだよっ!気分的な問題だよ、ついに魔王の居城だよっ!!」 「居城ってより住宅って感じだけど――まあいいかっ」 「そうだよふいんきだよふいんきっ!」 「うん、そうだな。雰囲気だなっ!!」 「ふん――?ふいんきだよふいんきっ!!」 「ん、うん、まあ、うん。それはいいよ、もう」 魔断が来た方向へと視線を向ければ、間蔵爺さんがとぼとぼと歩いてくるのが見える。 「間蔵さん早くいきましょう?」 声をかけた瞬間魔断にも、彼の声につられて間蔵爺さんへと顔だけを向けた盗にも、その表情が輝いたのが分かった。分かって魔断は頭を抱えたくなり、盗は魔断にローキックを入れていた。 「がっはっはっはっ!そうじゃろ?やっぱそうじゃろっ?!儂がおらんと心――」 「うん、盗。ごめんな?俺が悪かったよ」 「ううん。アタイこそ思わず蹴ってゴメン」 謝る魔断の背中を優しく叩いて慰めがなら、盗は二人だけで屋内に入ろうと促す。 「うむうむっ!来たぞいっ、誰がってっ?!儂じゃあっ!!」 しかし、そんな二人が漂わせるどこか哀愁にも似た空気になど怯む前に気付きもせずに、間蔵爺さんは二人の後ろに駆けつけ、その右肩と左肩をバシバシと叩く。 「「――――――――――」」 「さあ儂の息子の家じゃて。遠慮するこたぁないっ!行こうかっ!!」 3人はそのテンションの大きな隔たりを抱えながらも玄関の軒を潜った。魔断と盗は意思の疎通無くその場に立ち止まる。 確信を持って。 そして間蔵爺さんがまた二人の肩を叩く前に、左右に分かれた。 確信を持って。 「なんじゃどうした?心配いらん儂がおるんじゃぶっ!!」 間蔵爺さんの声が、硬いもので硬いものを打ち付けた音が聞こえたのと同時に途切れ、二人が離れたことで生まれたスペースへとその身体が倒れ込んだ。 魔断と盗の確信通りに。 魔断と盗は室内へと足を踏み入れた時、二人はあえて背後に一人分にわずかに足りない分だけ足を進めていた。そこに間蔵爺さんが詰めかけたわけだが、そんな老人の頭を勝手に閉まった両開きのドア(・・・・・・・・・・・・・)がしたたかに打ちつけ、また自身の自信に胸をそびやかしてたことも災いし、結果間蔵爺さんはモンスターでもトラップでもなく、正常に作動した建物の設備のせいで、到着早々意識を失った。 そしてそんな間蔵爺さんに一瞥もくれることなく、魔断と盗は見た。 周りの風景が歪むのを。 歪み現れるのを。 壁際で揺れるろうそくの炎を。 レンガ造りの通路を。 これぞ魔王の居城。 その通路の両脇には等間隔に悪魔をモチーフにした像が設置されていた。 「これ、きっとどっかのやつ動くよな」 「間違いないねっ!」 もう少し観察してみれば、通路は一直線ではあるが、その途中途中には木造の重そうな扉があるのが分かった。 「――ねぇ、おにいちゃん?」 「――わかってるよ……これってあれだよな?」 「あれだよね?」 魔断と盗は迷うことなく一番近くにあった扉へと駆けつけ、勢いよくドアを開いた。 辺りにはけたたましい音が響いたが、今の二人にとっては些細なことだった。 「引き出しあけてもいいんだよなっ!!」 「アタイ、タンスとクローゼットいくぅ~っ」 言うなり始まる、探索という名の家探し。 「お、おいっ!さすが魔王っていうだけあるぞっ?!なんだこのでけぇ宝石の付いた指輪っ!」 机の引き出しから魔断が見つけたのは、箱に納められた指輪だった。 「おにいちゃん、アタイも見つけたよっ!ドレスと髪飾りっぽいのっ!」 口ではどうのこうのと言いながらも、魔断も盗と同じようにこういったシチュエーションに憧れてはいた。ここが魔王の居城だということなら、文句なしで勇者パーティーとしての自分たちの権利だと、アイテムを見つけては引っ張り出していく。 「おい盗っ!これから決戦になるかもしれないんだから、ちょっとそれ装備してみろよっ!よくあるじゃん、魔王の城に強い装備が隠されているとかさっ!」 「う、うう~ん。でも、無理だよぉ」 「なんでっ!」 「だってサイズ逢わない」 盗が自分で体に当ててみれば、確かに彼女が見つけた装備類は、どれもこれも彼女のサイズよりも大きいものばかりだった。当然、盗が群を抜いて小さいからなのだが。 「まあ、しかたがないよな……。サイズじゃなぁ」 「うん――。なんか変なところで現実だよねっ!そうせならアタイのサイズに自動補正がかかってもいいじゃないねぇ?」 「いや、な?これ、現実だからな?現実っぽくないかもしれないけれど、現実なんだから。服に自動補正かかるわけないだろ?」 「ぶぅ~」 盗は頬を膨らませ、唇を尖らせる。 「アタイなんてまだ何にも装備持ってないのにぃ~」 「まあ、そういうなよ。ここから帰ったらそれ売ってちゃんと身体にあった装備買えばいいだろ?そういうお店はちゃんとあるからさ」 「えっ!それほんとっ!」 「じゃないと、俺たちも飯食えないしさ」 でも、と魔断は心の中で付け加える。だからこそ親父もお袋も仕事してるんだけどさ。 この今の世の中に、狩りによって得た収取品で生活していくには限度というものがある。まず第一にそもそも「獲物」の数が少ないことがあげられる。文明の発達に伴い、未開の地は開拓され、開発され、当たり前のように人が住まうようになった。当然それに応じるように「獲物」は駆逐され、管理され、住処を奪われた。結果として現代の狩りのその多くは、昨夜魔断たちの前に現れた「魔」を対象としたものであり、ひいては魔族ということになるが、その多くは普段この地球とは薄皮一枚程度の異相に存在する「魔界」に生息しているため、こちらから積極的に狩りに出かけることが非常に難しい。 なので、勇者などを始めとする彼らの多くは一般の大人たち同様に一般的な仕事についている。むしろ現代ではそちらが本職になっている者の割合のほうが圧倒的に高い。狩りなどは、使命感を満たすための実益を兼ねた奉仕活動といった程度というのが現状であり、警察などの公的機関や法整備が発達した今となれば、そもそもその需要は少ないからだ。 「じゃあおにいちゃん後で連れてってよぉ~」 「ん。この後の楽しみが増えたな」 「うんっ!」 こうしてパーティー内の士気を上げることも、勝利を掴むためには重要なファクターであることを魔断は知っている。 ――うまくノせることができたかな?でも、盗は身のこなしはともかくとして素人なんだし、俺がしっかり護らないとな……―― これから先待ち受けているのは自称とはいえ魔王を名乗る人物だ。おまけに魔族も控えている。今の魔断にできそうなことを考えれば、恥を忍ぼうとも逃げの一手も考慮しておかなくてはならない。 何より大事なことは、一人も命を落とすことなくこの状況を打破することであって、今回に限って言えば、魔王を打ち滅ぼすことではないのだから。 「そろそろ次の部屋に行こうぜっ!」 「だねっ!次はどんなお宝があるかなぁ。アタイなんかわくわくしてきちゃったっ」 お気づきだろうか?二人の眼が「$」になっていることに。一刻も早く泡姫を助けに行かなくてはならないはずなのに、「次の部屋」を「物色」することを優先させていることに。 若く、初めて野外ではなく城内を探索する二人にツッコむ者は誰もおらず、二人は次々とドアを開けては物色して回った。 ダブルベッドの置いてある寝室では、 「お、おいっ!コレ、■レックスだぞっ!■レックスっ!!」 「おにいちゃんっ、こっちには指輪がたくさんあって、一緒に銀行の通帳もあったよッ!!」 「って、おい……。なんだよこの額――1Mじゃねぇぞ?いやウソだろおい……」 「すごいねっ!魔王の城すごいねっ!さすがラストダンジョンっ!太っ腹すぎるよっ!!」 ベッドに横になることなく起きたままに幸せな夢を見、シンクのあるキッチンでは、 「そういや腹減ってね?」 「おにいちゃん朝ごはん食べてないもんね……」 「いや、朝は――まあ、食べてなくもないんだけどさ。そろそろ昼だろ?」 「あっ!おにいちゃんなんか缶詰あったっ!」 「ん?なんだこれ??きゃ――び……あ?きゃびあ。キャビアっ?!」 「なにそれすごいの?」 「なにって、あれだよっ!世界三大珍味だろっ!!やべぇおれ喰ったことねぇよっ!!!」 「よく分からないけど凄いねっ!!コレなんてハムだろ?」 「ん?なになに?ふぉーあー、ぐ――」 塩漬けされた真っ黒な卵のあまりの塩辛さに食べれないと判断しゴミ箱へと弔い、ガチョウの脂肪肝は脂臭いとの理由で同じくゴミ箱へと弔った。ついでに見つけた白トリュフはそれと気づかずかじった挙句、感想が「木っ!(盗談)」で同じくry。 下着入れを物色した結果、正方形の形をした袋を発見し何やら丸く浮き出ている中身に興味を持った盗が破いて魔断が赤面したり、盗が洗濯機の中から女性ものの下着を引っ張り出して広げて見せれば魔断が赤面したり、先に部屋へ入った盗を追い駆ければ彼女が入ったそこはたまたまトイレで、ついでに用を足そうとスカートの中から下着を下におろしかけている彼女の姿をまともに見た魔断が赤面したりした。さすがに最後のは盗も赤面したが。 そんなこんなと厳しい戦いを乗り越えて、ようやくたどり着いた通路の一番奥。 そこにはそれまでの扉と違い、禍々しい意匠の施された両開きの鉄の扉が待ち構えていた。ちなみに、廊下の湧きに設置されていた像が動くことは一度もないままに。 「ようやくたどり着いたな」 「うんっ!ねぇ、早く這入ろうよぉ~」 二人はホクホク顔で言葉を交わすと、その表情のままに鉄の扉を魔断が押し開けた。見た目とは打って変わってしっかり手入れされているらしく、音も立てず押されるがままにドアは開いていき、部屋の全貌を明らかにした。 そこは昏い空間だった。 魔法によって空間が操作されているせいか、そこは外観的には入口に近いはずの一番高い十字架を掲げた教会と同じ高さの天井を持つ室内であり、台座には聖母マリアではなく魔界の王と呼ばれるサタンの像がその禍々しい顔で魔断たちを睨み付けていた。 陰湿な空間を演出する為なのか、はたまた死霊の嘆きか。すすり泣く声が聞こえる。それも一つではない。 辺りを見回すも人影らしきものは見当たらず、盗はもとより魔断でさえも薄気味悪さを感じずにはいられなかった。 ――お、おにいちゃぁん―― 声を出すことさえ、なんらかの凶事の引き金になりやしないかと怯えた盗は、パーティーチャットで魔断にすがるような声を上げた。 ――任せろ―― ここで自分まで怯んでは、最悪盗がパニック状態に陥ってしまうかもしれない。これまでが浮かれ気分だったからこそ、あまりにも「らしい」この部屋の雰囲気は、あっさりと二人の足元を掬い上げていた。魔断自身もそのことを自覚しており、先ほどまでの自分たちのことを思い出して歯噛みした。 魔断はここが敵地であると自分に言い聞かせ、音を頼りに慎重に向かっていった。 祭壇を見上げるように設置された長椅子の間を抜けていくと、魔断は音の正体を知った。 「なっ」 「ひぃっ、なになに、どうしたのどうしたの、やばいの?やばいんだよねっ?!おにいちゃぁぁぁんっ!」 「う――くっ、ひっ……く、うぅうぅぅぅ」 「あんまりだ。あんまりだぁ~」 「へ――?」 魔断に遅れることしばし。 泣き声の主たちを盗も見た。 そこには3人の男女が力なく膝を床に着きながらも、それでも互いが互いを励ますようにしながら、それでいて縋り付くように、力強く肩を抱き合って涙を流していた。 そして、その中の一人を魔断も盗も知っていて――、 「泡姫?」 「泡姫ちゃん?」 よくみれば先ほど泡姫を抱えて間蔵爺さんの家から飛び去った彼女の母親も、その輪に加わってさめざめと涙を流していた。 「魔断さんのおにちくぅ~、おにちくぅ~。うぅうぅぅぅ、下着ぃ~お洗濯前の下着ぃ~見られましたぁ~」 泡姫のその一言に、魔断も盗も心臓に後悔という名の悔い――ではなく、杭を打ち込まる思いだった。走馬灯のように脳裏をよぎるあの時の風景。 盗が笑顔で泡姫の色は純白でありながら布地面積が少なめのレースがふんだんにあしらわれたショーツを広げて見せて魔断をからかい、魔断は魔断で「やめろよぉっ」などと弱々しい声で言いながら、指の隙間からちらちらとでありながら結果としてしっかりとその全貌を網膜に焼き付けていたあの時の愉しい思い出。 「■レックスぅ、初めてのボーナスだけでは結局支払いきれずに、翌々年の夏のボーナスでようやく完済した思い出の僕の■レックスうぅぅぅうぅぅぅぅぅ」 「指輪がっ!あなたにもらった結婚指輪がぁ~。アタシの宝物がぁっ。 それにキャビアっ!フォアグラっ!!白トリュフっ!!明後日の結婚記念日にって楽しみにしてたのにぃっあんまりよ、あんまりよぉ~」 二人はこの目の前の惨状を目の当たりにし、慟哭によって呼び起される記憶から、ここが泡姫の家であることを思い出していた。 魔王の居城だろうがなんだろうが、ここに在るものはすべて泡姫の家族の持ち物であったことを。 魔断は一気に血の気が引く思いだった。 ――あれ?俺勇者なのに?あれ?ここでやってたことって、要するに泥棒?―― 愕然となる魔断を見て、 ――大丈夫だよっ!―― 盗が励ます。 ――だっておにいちゃん勇者だもんっ!勇者って人の家からへそくりとっても、お家の人怒らないじゃないっ!!それにこの人たちが泡姫ちゃんのお父さんとお母さんなら、魔王と魔族だよっ?!誰にも責められないってっ!!!―― ――そっ、そうだよなっ??―― 一瞬等の言葉にうなずきそうになりながらも、魔断は目の前で「おにちく」を連呼する泡姫を見て、 ――だめだろっ!!助けるはずの本人が、あれだけ嫌っていた家族と肩抱き合って泣いてんだぞっ!!泡姫が泣いてんだぞっ!!!―― ――でっ……―― 視線を宙で彷徨わせ、バツが悪そうにニャハハハと笑いながら、 ――ですよねぇ~―― 盗は自らの発言に無理があったことを認めた。 「おにちくぅ~おにちくぅ~」と泡姫が連呼する度、魔断の胸にグサグサグサと言葉がその奥に音を立てて突き立つ。 「あ、あのぅ。そのぉ~」 盗が申し訳なさそうに一家に声をかけ、魔断もそれに続いた。 「「ごめんなさい」」 二人揃って頭を下げる。 途端にぴたりと泣き声が止んだ。 ここが魔王の居城であり、相手が魔王であることを思えば、その変わり身の早さに嵌められてしまったのではないかという疑念がよぎる。 「ごめんなさい。これ――お返しします」 「う、うんっ!アタイも返すっ!」 ズボンのポケットやらに溜め込んできたそれを、二人は涙を湛えた瞳で見上げる夫婦へと差し出した。泡姫の両親は一度視線を交わすと、 「――うぅっ。ありがとう」 「やっぱり泡姫ちゃんが選んだ子たちね」 そういって素直に受け取り涙を拭った。 「こちらこそ大人なのに泣きわめいたりして悪かったね」 「でもね?私たちにとってそれぐらい大事なものだったということは判ってね?」 ――あれ?なんだこれ?なんか恐ろしいぐらいいい人たちだぞ?―― ――油断したらだめだよっ!演技かもっ―― 盗がそう反論するも、 ――そう見えないから困ってるだよ―― ――あ、なるほどぉ……たしかにそだねぇ。あ、おにいちゃん。これ、おにいちゃんから返してよ―― ――ん?あ……、マジか―― 盗が魔断にだけ見えるように差し出してきたのは、純白のドレスだった。 「あのぅ、すいません。こちらももちろんお返しします」 「ほら、泡姫?彼らもこうしてちゃんと返してくれるんだ、な?もうそんなに『おにちく、おにちく』いわないでいいだろう?」 「そうよ泡姫ちゃん?許してあげてっ?行き過ぎたところはあったかもしれないけれど、あなたが話した通りになったじゃない」 ――?違和感を覚える。別にその違和感がなんなのかが分からないというわけではない。 その違和感を認めたくなくて、魔断は必死にその違和感を打ち消そうとしている自分に違和感を覚えた。 「いいえ――許せません……」 その瞬間この部屋の中から音の一切が消えた。 泡姫から吹き出し瞬く間にこの空間を埋め尽くした瘴気によって。 「だから少し――、お仕置きしないといけませんね」 彼女の薄い色の唇が紡ぐ。 「セントラル フィギュア」 魔断でさえ初めて耳にした装着単語。 瞬間的にこの教会内を埋め尽くしていた瘴気が先ほどはなたれたときとは今度は真逆に彼女の中へと収束するように飲み込まれていった。 「あ、ああっ、ああんっああぁぁあああぁぁぁぁぁぁ……」 艶めかしい声を上げて、彼女の姿が闇の卵に覆われ見えなくなった。 魔断は顎の下を拭い気が付いた。ぬるりとした感触に、自らが激しく緊張しているのだということをいまさらながらに。 黒い光沢さえ返す、黒曜石のようなその卵を見て遅ればせながら魔断も叫んだ。 「ライト フィギュアっ!!」 張り上げた声は自らを鼓舞する為。声を出して自らの緊張を少しでも吹き飛ばす為。 「盗さがってっ!!」 「う、うう――うんっ!」 すると泡姫の母親が盗を後ろから抱えて、 「あなたは――まだ戦えないのね。お願いだからじっとしててね?」 宙へと飛んだ。 「ライト フィギュア」 続けて聞こえた声に魔断が振り向けば、そこには彼女の父親が僧衣に身を包んだ姿があった。 「いい感です――。あの子を相手にするなら完全装備ぐらいはしないと、無理ですから」 申し訳なさそうに、情けなさそうに笑う。 魔断は視線を卵へと向け直しながらも泡姫の父親へと声をかける。 「まさか、魔王と共闘することになるなんて思いませんでしたよ」 同じように油断なく視線を中空に浮かぶ卵へと向け、 「あなたたち、泡姫から私たちのことをなんて聞いていますか?」 返された言葉に魔断は眉を顰め、怪訝に思うが故に、また当の本人であることもあり、戸惑うような声で素直に答えた。何が起きているのかを正確に理解するために。 「ネグレクトを受けている――と」 その一言に泡姫の父は頬を引きつらせ、 「違います、逆ですよ」 哀しみか、怒りか、恐怖か、あるいはそのすべての感情の為にか震える唇から思いを吐き出した。 「彼女こそが魔王なんですっ!!」 思わず魔断はあんぐりと口を開け、実の娘を断罪するように叫んだ父親へと視線をやる。 「ドメ受けているの私たちのほうなのよぉ」 肯定するように彼女の母親も。 「ちょ、ちょっと、間蔵さんが言ってたこととも矛盾してるんですけど」 今まで聞かされて続けてきた状況とあまりにも異なる説明に――しかし、目の前の光景から、皮膚を肉ごと骨まで押しつぶそうとするかのように感じる圧倒的なプレッシャーを感じている魔断は、縋るように真実を求める。 「考えても見てくださいっ!息子である僕の言葉と、溺愛する孫の言葉っ!あの父がどちらをとるのかをっ!」 しばし沈黙が場を支配した。 それは悲しいまでの理解の表れ。 「あ、あぁ~。ああああああああ」 気付きそうで気が付かなかった真実を指摘されたことですぐに見つけられた時のように、間の抜けた、どこか悔しさを覚えながら叫ぶ。 「お分かりでしょう?早い話が、父は既に洗脳済みなんですよっ!」 そのとき、ぴしりと音が響いた。 辺りを再び緊張が支配する。 「いいですか?」 まだ時間が多少あることを知っている泡姫の父は告げる。 「娘は――泡姫は、生まれた時からINTがカンストいえ、振り切っています」 「――はい?」 そんな話聞いたこともない。 「INTだけではありません。軒並みのステータスはカンスト以上です」 「軒並み……って」 「しかも成長期……」 「どこの主神ですか……」 「ただ、性格は……ブラックですけど」 魔断は思う。 またでたよ、ブラック。 ぴしっ。ぴしっ――ぴしししししししいぃッ! 最初の亀裂から端を発し、まるで強化ガラスが砕ける時のように網の目のような細かな亀裂が覆い尽くした後、ガラスが砕けるような澄んだ音を立てて、卵の殻が割れ落ちた。 魔断は唾を呑み込んだ。 奪われてしまった。 それを見た時。 姿を現した泡姫を見た時。 泡姫の姿は、装いは変化していた。 目に入ってきたのは、彼女の母親から受け継いだかのような漆黒の翼。ただし形状は異なっていて、まるで猛禽類のそれのように全体的に丸みを帯び、その先端は互いに重なることなく鋭い羽先を晒していた。 なにより、瞳が違う。 真っ赤に染まり、その中央には肉食獣のそれのように盾に細長い瞳がより深い色を湛えて魔断のことを見据えていた。 その唇は真っ赤なルージュを刺したように赤く艶やかに光を返し、彼女の白い肌も相まってより一層彼女の華やかさを引き立てていた。 何より魔断が驚いたのは、その大きな胸――ではなく、その大きな胸を強調しながらもそれを感じさせない彼女の身に纏う衣装だった。 胸元には真っ白なバラの花束を――ブーケを手にした彼女が纏っていたのは、先ほど魔断が彼女に差し出したウェディングドレスだった。 泡姫がそこにいるだけで放出される、常人であればそれだけで気がふれてしまうだろう、妖気や瘴気や魔力に無防備にさらされながらも、魔断はそれらすべてを忘れてしまったように、 「綺麗だ」 呟いていた。 滑らかに光を返す純白のみで作られ、その装飾の陰影のみで彩られたドレスに翻る真っ黒な翼。それらに劣ることのない彼女の濡れた絹糸のような素肌。その小さな顔で異彩を放つ真っ赤な瞳。 取り込まれていた。 たった一眼で。 「勇者さんっ!気を確かにっ!あの子はパッシブで魅了を発動させています。これも生まれた時からっ!! 私たちは少しでも彼女の犠牲になる人がでないようにと、彼女が不遇の出会いに陥らないようにと教えようとしては着ましたし、実際通常の――人の姿をしているときはかなりの所を抑え込むことができるようになっていましたが、今の彼女だとその効力は当然にして最大っ!! 神域といっても過言ではありません」 泡姫の父は魔弾の肩を掴み揺するも彼の顔は相変わらず泡姫へと向けられたままだ。 「聞いているんですかっ!今のままでは危険ですと――そういったんです、なっ」 そんな肩に置かれた手を魔断は無造作に払いのけた。そうされた泡姫の父親は驚きの声を上げ、下唇を噛む。もう、たった一瞬で手遅れなのかと。 泡姫の父親や母親には耐性があり、またそれを防ぐ術をも知っている。 母親に抱えられる盗は自然とその影響からは少なからず免れてはいたが、それでも胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。同性なのだとしても、だ。 そんな魔断の様子を見ていた泡姫は妖艶に微笑んだ。 耐性を得、防御策を施している両親ですらも一瞬どきりとする。 魔断は吹雪の中でどうして寒いのかもわからない旅人のようにはかなげに見えた。 そんな魔断を見て、泡姫はその朱を引いた唇を開いた。 「いい子ですね――魔断さん。そうです。あなたはそうやって私だけを見ていてくれればいいんですよ?他の誰でもない、私だけを。 ただ、お仕置きはお仕置きです。このブーケが真っ赤に染まるまで、私が躾けてあげます」 その一言に状況を正確に理解した彼女の両親は身体の中から体温を冷えた手で鷲掴みにされた思いだった。 泡姫は言っているのだ。手の中のブーケを魔断の血で染め上げると。 「これ以上はもう駄目だっ!アイル行けるかっ?!」 「ん。もちろんよ正(ただし)」 呪文の詠唱を始めようとした泡姫の父、正だったが――それは構えを取るさなかに遮られてしまう。 瞠目する彼の喉元に、抜かれたことさえ感じさせない速度で、魔断が抜き放った剣の切っ先が薄皮を傷つけ、付きつけられていたからだ。それは暗に脅しではないことを雄弁に告げていた。 下手に唾を呑み込もうとでもすれば、それだけで肉を裂くかもしれないという絶対的な恐怖がそこにはあり、抗議の声も罵声を浴びせることも許されない。脳内で圧縮されるばかりだ。 横目で確認してみれば盗も何も言わずにただ黙って俯瞰している。それは魔断の行動を暗に肯定しているようにも見えた。 「泡姫のことを悪く言わないでくれませんか?」 魔断は低い声で告げた。 正は悟った。――もう駄目だ、と。 「俺はまだ子供です。親の気持ちなんてわからない――でも」 正は眉をひそめたくなった。剣先のせいで僅かな表情筋の動きですらままならなかったが。 「親に決めつけられる子供の痛みは知っているつもりです」 魔断は抜いた時同様に唐突に剣先を鞘へと納めた。正がそれを理解したのは、納刀を告げる音が聞こえたからだったが。 魔断はゆっくりと泡姫へと歩を進めながら続ける。 「親が理解できない子供の才能を、自分が理解できないからと言って押しつぶそうとするのは間違いじゃないでしょうか?」 「だがっ、そうはいうがっ!!人として、進まなければいけない正しい道というものがあるだろうっ?!それを示すのは親の役目だっ!!」 自分の中にある絶対的な責任感を問われ、正はたまらず反論する。 「そうですね……それはそうだと思います」 でも、 「泡姫を誰が認めてあげるんですか?」 魔断は視線を泡姫へと向けた。 向けた先の彼女の表情は相変わらず微笑を浮かべてはいたが、先ほどまであった艶は失せていた。 まるでそれは、微笑んでいるのに泣いているようで、啼いているようで。 「だれだって表があれば裏があるんじゃないですか?善があって悪があるんじゃないですか?信号は赤だから横断歩道を渡ってはいけない。でも緊急事態だから多少は許されるだろう。きっとお巡りさんが見ていたら許してはくれないですよね?」 「僕はそんなことをした覚えはないっ!!」 自負の念を強めて応じるも、 「ええ、だから俺たちは納得できないんです」 魔断は背中で訊きとめながら正面に言葉を発する。 「どうして不遇の人が走ったその先にいるのに、誰もそこに駆けつけないのかが不思議でならないんですよっ!!」 魔断はここで怒声に近い感情の丈をあらわにした。 「盗――」 「ん……」 「お前と逢えて俺は本当によかったって思ってる」 「――ッ……」 盗の意識が明瞭になり、半日ほど前の記憶が蘇る。声が届いた嬉しさを覚えている。 「泡姫、君もだ」 「…………」 「君が何者だって構わない。手が届く範囲なら、俺はどこへだって駆けつけるよ」 泡姫は自分の視界がぐらりと揺らめくような、そんな錯覚に襲われた。魔力を足場に宙に浮いていることを自覚しながらも、足場のおぼつかなさに本能的な緊張を得る。 「遠くに行こうとしないでくれよ。 無理矢理手元に置こうとしないでくれよ。 俺、いるからさ。 ちゃんといるからさ。 ちゃんと来るから、側にいるから。 泡姫のこと許すだなんてそんな烏滸がましいことも、見当違いのことも言わないさ。ただありのままに泡姫を受け入れるから……。 俺たちの所に帰ってきてくれよ。 俺と一緒にいてくれよ」 魔断の言葉が泡姫の胸に届く。彼女のぐしゃぐしゃに罅が入った透明な分厚いグラスに優しく注がれる。それが心地いい。それが淋しい。なぜなら、罅の隙間がその言葉をそこから染み出していくから。 「――何を知っているんですか」 気が付けば声が口を衝いて出ていた。 「私の何を知っているっていうんですか――」 右目を大きく開き、左眼は三日月を描き、右唇は吊り上り、左下唇を噛むという、歪んだ笑みをその顔に浮かべて。 涙を静かに流して。 「私はもう言葉だけじゃ止まれないっ!!」 泡姫の気配が膨らんだ。そのすべてがバスケットボール大の7つの黒い光球へと実を結び、彼女の周りを球状に旋回し始めた。 「魔断さん――だから、だからっ」 7つの光球その一つ一つが、天頂に届いた時、彼女の手にするブーケへと吸い込まれていく。 その光景に魔断は悟る。 「いいよ」 悟り短く答える。あっけなく答える魔断に多少イラつきを覚えた泡姫は言う。 「馬鹿にして……」 「――――――」 泡姫がブーケに込めた7つの光球の意味を魔断は正確に理解していた。 それは7つの大罪。 傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。 「これはあなたが思っているようななまなかなものじゃ――」 「いいんだよ」 それでも魔断はあっさりとした口調で、 「受け入れるっていったろ?」 いともたやすく答える魔断に、嘲るを交えて宣言する。 「まあ、私はいいんですけれどね??これを受けてあなたが耐えきれればそれでよし、耐え切れなかった時には『私好みの色』に染めてしまったというだけですから」 最後の光球――嫉妬がバラに飲み込まれ、泡姫は下からすくい投げるようなポージングを取り、 「魔王の祝福あれ(ポイズン・ブーケ)」 毒。 それだけを聞いて何を想像するかは個人の自由である。たとえば、RPGあたりで状態異常ステータスである毒を受けても、たかが知れていると鼻で笑うのもそれはそれで事実ではあるし。 しかし思い出してもらいたい。 青酸カリという毒物を。飲んだら即死というイメージがあるあの毒物を。フグ毒を。もし既知であれば恐縮するばかりだが、知ってもらいたい。フグ毒と聞けばそこまで大それたイメージはないかもしれないが、実はその成分であるテトロドキシンの致死量は、口から摂取した場合青酸カリの850倍もの毒性をほこる。 その上で想像してもらいたい。たった一つでさえ、人をその感情で狂わせるほどの劇薬を、7つ纏めた毒の花束のその恐ろしさを。 肉体的には影響しない、精神を犯すその残虐性を。 それまでの自分を蹂躙され、新しい自分を繕い強制するその無慈悲さを。 ポイズン・ブーケそのものは肉体を犯さずとも、発狂する己の精神が肉体を死に至らせることさえ十分にあり得るということを。 それは絶望と呼んでさえいい。 そんな絶望が形を得たブーケは緩やかな弧を描き、寸分たがわず魔弾の胸に辿り着き、魔断が両手で受け止めるなり、それを無視するように彼の胸へと溶け込んでいった。 魔断は全身が心臓になったかのような衝撃を覚えた。巨大な心臓が慄き拍動したかのような衝撃を。 魔断の意思とは無関係に、纏った装備がはじけ飛び、元の私服姿へと戻る。 荒れ狂う昏い感情の奔流が、魔断の意識を奪い取ったかのように凶暴性を発露させるが、やり場のない怒りをぶつけるように、彼は自らの上着をすべて引きちぎり、脱ぎ捨てた。 そして対峙する泡姫以外は見た。とはいえ泡姫も当然知っている。 魔断の背中に大きなバラの花が、ブーケを真上から覗き込んだ時のように7つの大輪を咲かせ、その白い花弁が彫り込まれていた。 「――いいましたよね?魔断さん?この花束を赤く染めると」 次第にその白い花弁が脈動に呼応するように、血色へと変化してはまた白へと明滅し始めた。 「その花びらがすべて赤に染まった時、あなたは私のものです」 宣言するように、命じるように、詫びるように、謝罪するように泡姫は告げる。 「見せてくださいっ」 願うように。 「お願い――します」 縋るように。 「助けて……」 少女は自分の本音を、人としての本音を呟く。 「ぐぁあああっ、あっ、ああっ、ぐ――ぎぃいぃぃぇええあああああっ」 しかしその声は魔弾の絶叫の掻き消された。 瞬間的に鮮血のようにその花弁が濡れる。 だんだんと白である時間が短くなり、逆に赤である時間が多くなっていた。 魔断は自身の中で抗い続けていた。 目の前で繰り広げられるのは、自分を中心とした物語。 どれもが残酷な物語。 それらは互いに絡み、別れ、また結んでは、解かれて、終わりのない激情に心が絶叫を上げる。それが同時に7つも展開されているという混沌の極み。 結びつき像を得たかと思えば、話が終息したかと思えば、理解したかと思えば、分岐して魔断の心を引き裂こうとしてくる。 7つの木の根が、自分の居所を確保するように、這いより、絡まり、心を奪い取ろうとしてくる。その度に梳られていく。 涙を流し、涎を垂らし、鼻水を拭うこともできず、ただただ感情の奔流にさらされる。 「おにいちゃんっ、――ッ、おにいちゃんっ!!」 泡姫と魔断を交互に見ながら、盗は魔断を呼ぶ。 すでに喉元まで「泡姫ちゃんもうやめてぇっ」という悲鳴が出かかっている。 けれども、彼女にはもうこれしかないのだということも理解している。 それは、自分がまだ大人ではないから、これから先を知らないから、時間の経過というものを本当の意味で知らないからこその、子供らしい理想論なのではないかという疑念も抱えてはいる。 だが、だからこそなのだ。 だからこそ、泡姫の気持ちもわかるのだ。 止められない。止めてはいけないっ!そんな言葉は今は不要なのだとっ!! 「おにいちゃんっ、がんばってぇ、がんばってよぉ~」 頑張っている魔断にこれ以上頑張れということを残酷に思いながら、それでも繰り返す。 「おにいちゃんっ!アタイっ!アタイはっ!!今まで通りのおにいちゃんがいいっ!!!」 繰り返すッ――。 「だから、がんばってよぉ~、耐えてよぉ~、もうすぐだよっ!きっとだよっ!!」 抱えられた腕の中で懸命に声を張り上げる。 魔断の絶叫に負けないように。耳には届かないだろう声が、心にこそ届くようにと。 「う――」 そして、 「お……」 魔断の眼が見開かれ、その目が昇天を結び、 「おおぉぉぉぉォオォぉぉぉぉォォぉおぉぉおぉオォおぉおぉぉォォオォオおおおおおおっ!!!!!」 喉奥から雄叫びが迸った。 そんな魔断に皆の視線が釘付けとなる。 そんな魔弾の背中へ視線が向けられる。 泡姫は唇を噛んだ。 彼女には自らわかるのだ。 見ずとも。 盗は呆然としていた。 やがてその眉がゆるやかに下がり、 「――そんな……」 思いとは異なる現実に、俯く。 バラの花弁は禍々しい赤をこれでもかと見せつけていた。 「おにいちゃん……」 泡姫は気が付かず純白のドレスごと、自らの爪をその手に食い込ませていた。 判っていた。 ありえないって。 だって、あれは人には制御しきれない。 七つの大罪。 己が身さえも本人も気が付かぬうちに終焉へといざなう、魔性の激情。 わかっていたのに、わかっていたはずなのに。 信じていた。 期待していた。 一方的に。 勝手に。 一人で。 期待した。 ――でも、これが現実。 奇跡なんて起こらない。 泡姫は切り替える。 魔王の思考へと。 魔王としてこの結果を結末にするために。 「さて――フィナーレです」 自分に言い聞かせるように。 自分に命じるように。 その足がまるで見えない階段を歩くように魔弾の元へとその身を運ぶ。 まるで心もとない。 しっかり歩けている自信がない。 けれども、魔断との距離はちゃんと縮まっている。 泡姫の姿が近づくにつれ魔断は両膝を地面に付き、己の身分を示して見せた。それは畏まるようなものではなく、突如現れた絶対的な存在を前にした忘我の行動。 彼の目の前に立って小さな安堵のため息を吐く。 そして彼の顔を見た。 焦点があっていながら、何も見据えていないガラス球に等しきその瞳を。 「誓いの――キスを……」 泡姫の唇が魔断に迫る。 魔王が定める魔王の従者としての魔王の契約。 自分の色に染め上げるための最後の儀式。 泡姫はゆっくりと唇を近づけて、彼の唇に触れた。 触れたのは――涙。 泡姫が屈みこむように唇を近づけたその時に、彼女の頬を伝うまでもなく溢れ出した涙の滴。 「う――、ううっ……――、――――――」 こみ上げてくる嗚咽を噛み殺し、泡姫は無感情を装う。 そしてもう一度仕切り直し、泡姫は魔断に唇を重ねた。 彼女にとってのファーストキスはしょっぱかった。 それが悲しい。 どれだけ賢くても、思い通りになんてならない。 それが悲しいのだ。 いつも空回り。 いつも台無し。 挙句の果てには勘違いされて、され続けて、辿り着いた今だ。 よき理解者になり得たかもしれない人物も、自分の手で切り捨ててしまった。 どこまでも孤独。 誰かはいるだけ。 外形のみのハリボテと何が違う? 目元をぬぐい、ぬぐい、ぬぐう。 前なんて見えない。 これまでも見えなかった。 きっとこれからも。 手探りで進み続けるだけ。 涙で歪む視界が、これから先をなかなか見せてくれない――違う、見たくないのだと理解するのに、そう時間はかからない。 「――んだよ、いい加減ショックだぞ、それ」 ぴたり。 泡姫の動きが思考が止まる。 聞いた声が、聞こえるはずがない声だと気付いて。 ついに、幻聴でも?半ば本気で自分の正気を疑う。 「そんなに、俺とのキスがショックだったのかよ」 泡姫はがばっと身を起こした。 その時には既におそるおそる近くまで来ていた盗が、泡姫に先んじて魔断に抱きついていた。 「おにいちゃああぁあああんんんっ!!」 「うおっ!!へへっ、あ、いや。すまん、だな。心配かけたよな」 泡姫一人だけが気が付いていなかった。 一人悲しみにくれる彼女だけが気付けずにいた。 他の3人はしっかりと見ていたのだ。 魔断の背中のバラが、一瞬にして白へ塗り替えられたその瞬間を。 「な――んで、どう……して?」 呆然と呟く泡姫。 自分の放った魔法の威力は、自分が一番よく知っている。 奇跡にすがっておきながら、目の前に現れた奇跡が信じられない。 都合のいい夢ではないのか? 「いったろ?全部受け止めるって」 魔断はしゃあしゃあとそんなことを言う。 それが泡姫の琴線に触れる。 「そんなっ!そんなっ簡単なものじゃ――」 「いや、まあ簡単じゃねぇけどさ……。もともと七つの大罪ったって、誰にだって起こりえることだろ?その全てを許す――だなんて、俺にもまだできなかった。けど――、抱えて歩くしかないよな、人間なんだからさ」 魔断はニッと笑った。 「――てのは建前で」 バツが悪そうに頭を掻いて、泡姫から視線も外して、 「お姫様の涙見せられちゃ、やるしかねぇだろ?」 その頬は朱に染まっていた。 そんな魔断の姿に泡姫もつられるように頬を染め「もうっ」と頬を膨らませる。 「本当に、大丈夫なのかい?」 正は魔断に真面目な顔で問いかけた。 「本当のことをいってくれないか?」 魔断はその視線から逃げられず、正直に本音を吐露した。 「きちぃっす」 「だよね……」 あきれ顔になる正に、 「でも、大丈夫です。ちゃんと飼い馴らしていきますから」 笑って泡姫の父親に応える。 「泡姫がいれば、きっと。だって、これも彼女なんですから」 「……なるほどね。うん、わかった。泡姫のことこれからよろしく頼むよ」 「はいっ!」 魔断は力強く頷く。 「泡姫ちゃんも、それでいいのよね?」 「――はい」 母の言葉にしとやかに頷く。 「いやぁ息子が出来て、お父さん嬉しいなぁ。な?母さん」 「そうですねぇ。どこか淋しくもありますけど」 「それをいうなよ」 二人の会話の方向性が怪しい。 「お父さん、お母さん……。認めていただいてありがとうございます」 三人だった。 「ちょ、っちょっと??」 「ん?これから泡姫を支えてくれるんだろう?伴侶として」 「――は?」 「伴侶?」魔断は問い返す。 「泡姫を受け止められるのは勇者――いや、魔断くん、君しかいないっ! はははっ、なんだか照れるね。こういうの」 「魔断さん泡姫ちゃんをよろしくねぇ?」 「え?いやいやま――」 「魔断さん、だめ……なんですか?やっぱり受け入れてくれないんですか?」 上目使いで涙を浮かべる泡姫を至近距離で見て、 「そんなわけないじゃないか」 反射的に答えてしまう魔断。 答えた後で我に返り、懊悩に頭を抱える。 「おにいちゃぁんなにやってるのさぁっ!ちょっと、ダメだよッ!ダメダメダメダメっ!アタイだってお兄ちゃんのこと――」 僧侶家にたじたじになっている魔断に手を差し伸べたのは盗――、 「二号さんで手を打ちませんか?」 「に、二号?」 早くも雲行きが怪しい。 「いやなにいって――」 ちょっと?おふたりさん?魔断の声なんて二人に届かない。 「なんならMk.2とかいかがですか?」 キリリと眉を寄せて「君しかいないっ!」とバリに肩を掴む泡姫に、 「なにそれっ!ちょーかっこいいっ!!」 意味が分からぬまま、語感の良さに興奮する盗を見て泡姫は今度は哀愁を漂わせて、 「――譲りますよ?」 その座を示した。 「へっ?!」 いかにもかっこいいそれを、泡姫が譲るといった言葉が盗には信じられない。 「Mk.2の座を。それともオリジナルのほうがいいですか?」 「いやっ!アタイMk.2のがいいしっ!!」 「決まりですねっ!」 「だねっ!さすがは泡姫ちゃんだよぉ~話がわっかるぅ~」 「おそれいります」 瞬く間に交渉は成立した。――詐欺臭いが。 「いや、騙されてるからなっ!それ絶対そういう意味じゃないからなっ!!って、だいたい俺の自由意思はどこ行ったっ?!」 その事実を知っている、この話の当人たる魔断が反論ののろしを上げようとするも、 「――私と一緒になるの……嫌なんですか?」 「そ、そんな上目遣いで――……。 よろこんで」 逆らえない自分を呪う。 「決まりですね」 「だねっ!」 「ぐおぉぉおぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」 三者三様の様相を呈しながらも、魔断たちは勇者家へと帰ることになった。 たんに魔断が諦めただけという話ではあるが。 帰る間際魔断は正の元に二人に気が付かれないように近寄ると、その耳に口を寄せ訊ねた。 「なんで、泡姫って名前にしたんですか?」 「あ、あははは。なんでかみんなそのことを尋ねるんだよねぇ」 正は遠い目をして、魔断に命名の由来を利かせた。 「生まれた時からあの子は泡のように肌が白くて、綺麗でね?そんなお姫様を見てこれしかないかな~ってさ。まあそれだけといえばそれだけなんだけどね」 魔断は胸の裡で思った。 きっとこの人は本当に今まで赤信号を無視したことがないんだろうと。 「魔断さん?」「おにいちゃん、はやくぅはやくぅ~」 泡姫と盗の声にせかされて、魔断は「それでは」と挨拶を告げると、僧侶家を後にした。 3人で岐路に着きこれから先のことを話しながら歩けば、もう家は目の前だった。 泡姫と盗はまるで示し合わせていたかのように玄関に駆け寄り、盗のピッキングで魔断より先に限界内に入ると鍵を閉めた。 一瞬、弾き出された?と疑問に思う魔断だったが、すぐにその真意に気付く。 気付いて、照れくささを覚える。 自分の家だというのに、玄関のドアをノックする。 開錠の音。 開かれる扉。 顔を見せた二人の女の子。 彼女たちにそれでも笑顔でいう。 「ただいま――」 泡姫と盗は小さな声で「せーの」と声を合わせて、 「おかえりなさい」 魔断を迎え入れた。 これから我が家となる三人の家に。
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